大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 近世
江戸時代の飛騨方言・飛騨・信州共通方言の怪は、どしま、にあり
何かひとつ考えが浮かぶとすぐさまネット検索をしてあれこれ肉付け資料を漁ります。次から次へと自分の考えを支持してくれる資料がみつかると考えは確信に近いものになります。という事で、最近少し調べてみた事をお披露目しましょう。
言う、は飛騨方言で、そう、そして信州では、せう。サ行の動詞ですから同根に間違いありません。しかも飛騨と信州は隣同士なのですから言葉が似ていても当然、何にも面白い話ではありません。がしかし大事な議論が抜けていませんか。つまりは飛騨と信州をつなぐ道といえばたった三本しかありません。平湯峠(高山-松本)、野麦峠(高山-松本)、長峰峠(高山-木曽福島)です。誰がいつの時代にどの峠を通って飛騨信州共通方言を形成したのでしょうか。ほらたちまちに、それもそうだ・やはりわけがわからない、という事になりませんか。
夏は野麦峠と長峰峠は人の行き来は比較的、楽でしょう。先史時代から人の行き来があった可能性はあります。飛騨川を遡上した弥生人に蹴散らされて飛騨縄文人が信州へ逃げたのかも知れませんね。尤も先史時代の原始日本語が分からない以上、あれこれ考察する事は馬鹿げています。でも先史時代に縄文人が少なくとも夏の間だけでも飛騨と信州を行き来して共通方言が出来たのでしょうか。答えは否、でしょう。飛騨も山国、信州も山国、同じ生活環境で生きていくのがやっとの人達が幾日もかけて生活を忘れて方言境界をまたいでピクニックをするわけがありません。
大変にまわりくどい前置きでした。筆者なりに推察しますに、飛騨信州共通方言(例えば、飛騨方言そう)の形成に重要な役割をになった人は近世、特に江戸時代、にこれらの峠を自在に行き来していた運送業者、牛引き、の方々です。牛方と書いて飛騨方言では、どしま、と呼ぶのでしょう。別漢字を充てて度仕参、と書く文献もあります。何頭もの牛の行列です。背に荷物を乗せて山の悪路をただひたすらテクテクと歩くのです。
運送したものはといえば、経済原則に従い有るものを無い所へ持っていく、当たり前の事ですね。ぶり、塩、米、酒、等々です。また個人の業者もいたでしょうが、ご興味有る方は尾州岡船(びしゅうおかぶね)をキーワードにネット検索してください。木曽御用地は尾張藩の財産、藩の庇護のもと沢山の牛引き運送業者が江戸時代の中部地方の陸上交通を一手に引き受けていたのでした。配達範囲は木曽・飛騨・信州・遠く越後にまで及びます。運搬量は少ないかも知れぬが江戸時代は言うに及ばず明治時代まで、東西方言境界線をまたいで延々と続いた。言葉もこうやって伝播しないわけがありません。
おまけ
飛騨で牛といえば今の時代はただ屠殺され、人の胃袋に納まるだけの身です。ただし衛生環境が整った場所でいい餌を与えられ、そして瞬時に気絶、安楽死させられるのでモノは考えよう。江戸時代の牛君達は生涯こき使われて、人を恨み続けていたに違いありません。