大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 近世
江戸時代に富山から飛騨に入ってきた言葉
いつもの散文調で申し訳ありません。私、正直申しますと富山に行った事は実は二回しかなくて。一回目は四十年以上前の小4の秋の遠足でした。猪谷駅を越して笹津あたりから砺波平野が広がると、うわぁあ富山平野だ、という気持ちで心躍りました。思い出します。二回目は二十年前、名古屋にいましたが突然に富山に出張、国鉄高山線を起点から終点まで乗りました。故郷高山を素通りです。猪谷駅に関所の博物館がある事など知る由もありません。さて高山には帰省・野暮用ということで年に何度か、ところが美濃太田を過ぎて中山七里、飛騨金山、下呂から高山に至るまでホント長い列車の旅ですよね。要は、高山は名古屋よりも富山に圧倒的に近いのです。
早速に本題ですが、手元に一冊の本・鰤(ぶり)の来た道・松本市立博物館編、があります。全百二十六ページ、先ほどは夕飯そっちのけで読み漁りました。このような単行本がある事を知ったのは三日前、ネット情報です。クリックして注文したら今朝宅急便で届きました。本書は富山から高山を経て、私の住んだ村・大西村に近い美女峠を経て朝日街道、野麦峠を経て信州松本まで江戸時代から明治時代まで正月魚・ぶり、が如何にして運ばれたかという点のみを詳述した書であり、マニアックといえばマニアックな書でしょうね。それでも私にとっては、ここが肝心、美女峠から朝日街道なんてのはぺんぺん草が生えているだけのしょうもない道だけど私の家から数キロ先、そこに実は江戸時代にフームこんな物語があったのか、という事を知らされるという意味で書の一字一句があだやおろそかにはできない専門書なのでした。
わくわくした本の内容ですが、富山湾の鰤を塩漬けにして飛騨高山経由で信州松本に運ぶというビジネスは寛永十六年(1639)に富山藩が加賀藩から分藩した事がスタートです。相前後して鰤の漁法が発展するが藩は富山湾での鰤漁を許可制とし保護の名の下に監視、また藩は西猪谷関所を設けて飛騨への人及び物流の一切を監視し通行税を巻き上げる事で権益を確保したのです。(やり方きたねえぞ。)関所を通じて飛騨に入ったものは、酒、塩、生魚(ぶえん)、薬、ぶり、その他無数の生活物質に加え悲し米すら。一方、飛騨から富山に出たものは、木材、茶、たばこ、漆の実。つまりは富山から飛騨へは江戸時代当時の文明品すべて、一方飛騨から富山へは一次産業品のみ、でした。文明品には名前がある、つまりは飛騨へ輸入された言葉です。がしかし一次産業品が富山へ輸出される事はあっても言葉は輸出されなかったのです。悲しすぎる貧乏飛騨。
また西猪谷関所を通過した人間とは。宗教関係者、技芸者、茶人、画家、碁打ち、講談師、虚無僧、易者、居合技、医者、かわった所では大相撲の一行。つまりは農民はゼロです。また当時、江戸時代、飛騨の人口の九割は農民だったでしょう。飛騨から出て行った言葉などあろうはずもありません。
おまけ
ぶり漁の許可制、西猪谷関所の通行税は富山藩を潤しました。飛騨とて例外ではありません。貞亨五年(1688)には高山の肴問屋・川上善吉に独占権が与えられ、以後直接の売り買いはご法度となりました。(佐七がまたほえる、やり方きたねえぞ。)これにより川上家は莫大な財をなし、幕府天領はその上前をはねるという社会構造となったのです。明治と共に川上家は没落、今は高山市図書館の前に町年寄川上家跡、の一基の石碑のみ。