大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 飛騨の地名・番外編・幻の地名

川西村(かわにしむら)

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私:川西(かわにし)という地名は益田郷(下呂・萩原地域)の中でも飛騨川の西岸地域を示す。飛騨川は北から南へ流れるので、川西は飛騨川の右岸地域と言い換えてもいいね。明治になって突然にできた村。
君:ここのところ、立て続けに明治の廃藩置県のお話ね。そのあたりの事であろう事くらいは想像がつくわよ。
私:廃藩置県以前の話となると江戸時代。飛騨全体が天領にて益田・大野・吉城の三つの郡に散らばる無数とも言える村々を幕府が直轄。
君:明治になって突然に出来た村としては三郷村(みさと)があるわね。
私:その通り。明治政府は益田郡を小坂(おさか)・川西(かわにし)・三郷(みさと)・下原(しもはら)・馬瀬(まぜ)・金山(かなやま)の村を制定した。金山は加茂郡や郡上郡との線引きで紆余曲折があった。小坂・川西・三郷・下原・馬瀬の四つに関して、小坂・馬瀬・下原はほぼ現在の区画と一致するので書き加える事はない。問題は川西と三郷だ。
君:三郷って上呂・中呂・下呂の事よね。
私:いかにも。そしていずれも飛騨川の東、つまりは左岸に位置する。明治政府としては飛騨川をはさんで川東村と川西村、この二つの村名でいこう、なんて案もあったのかもしれないね。
君:しかし、そうはならなかったと。
私:そう。つまりは地名としての響きというかスケールというか。
君:幻の地名、川西の範囲は?
私:現在の字としては、尾崎(おざき)・四美(しみ)・野上(のがみ)・羽根(はね)・跡津(あとつ)・西上田(にしうえだ)・少ケ野(しょうがの)・三原(さんばら)です。少ケ野と三原は明治22年に下呂村にもらわれた。残りの村が川西村として残ったが、昭和31年に萩原町が発足、この時に萩原町は山之口村と川西村を併合し、行政区としての山之口と川西は消滅した。
君:つまり川西村は明治8年から昭和31年までの命だったのね。
私:そういう事。都から飛騨高山までの道を古代には飛騨街道と言ったが、上呂・中呂・下呂を結ぶ道が表街道にて現在の国道41号線の事で川東(かわひがし)街道と呼ばれていた。川西村も県道・中呂三原線と県道・西上田小坂線が走り、川西(かわにし)街道と呼ばれていた。古代の飛騨街道は川東街道を経て上呂にて浅水(あさんず)の渡りで飛騨川を横切り、位山官道に抜けるのであったが、近代に至り飛騨川に幾つもの橋が出来て、川西街道の経済圏は川東街道の経済圏(下呂温泉と萩原町)に呑み込まれた。かくして消滅した川西村。
君:明治に突然にできた地名・川西という事で、あまりノスタルジアは感じられないわね。
私:いやいや、明治は遠くなりにけり。川西の地名への郷愁は無くなってはいない。只今、ネット検索をしたところ、若干の事業所名に川西の名前が出てきて、おおっ、と思いました。
君:それと、このサイト情報。 ほほほ

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