大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 飛騨の地名・番外編・幻の地名
三郷村(みさとむら)
私:三郷村(みさとむら)は現・下呂市萩原町の旧名にて、現存しない。幻の地名です。ただし、少々なりとも説明を要する。行政などのウエブサイトを検索しても的確な三郷村情報は得られない。
君:それを言ってはダメ。簡単に一言で、まずは結論からプレゼンしなきゃ。読者の皆様からそっぽを向かれちゃうわよ。
私:はいはい、では。三郷村は廃藩置県に伴い明治8年に成立した。まずは大前提として、三郷の名前は誰が考えたのか不明だが、上呂・中呂・下呂、この三つを示す事は間違いないと思う。明治8年は下呂温泉と現・萩原町辺り一帯を示す広範囲な行政圏だった。今日は副題がある。萩原と下呂の仁義なき戦い。
君:それは聞き捨てならないわね。詳しく説明してね。
私:萩原町(ちょう)は江戸時代は萩原町(まち)と呼ばれた下呂郷の中心地であり、明治初期には僕たちが益田郡のリーダーという意識があったと思う。つまりは萩原町は上呂・中呂・下呂を意味する三郷の名前を引き継ぎ、湯之島なんて僕たちの子分なんだよという事で、明治8年に三郷村になった時は皆が納得だったのじゃないかな。その一方で、江戸時代の湯ノ島村は明治8年に三郷村の大字になったのだが、元々は一帯は益田郡下呂郷だったのだから湯ノ島もビッグネームをもらって大喜び。お互いにウインウインという感じかな。
君:でも若しかしてその後に、つまりは湯之島が三郷村から独立を勝ち得てその名も下呂村に、現・萩原町は三郷の名前を引き継いだ、つまりは三郷村の行政区画が縮小し現・萩原町に限定されたという事かしら。湯之島が独立して下呂村が誕生したのはいつ?
私:明治16年だ。ところが三郷村の悲劇はそれに留まらない。実は三郷という村名は明治30年に廃止となった。
君:つまりは三郷村は改名して現・萩原村になったのね。それはいつ?
私:明治30年だ。つまりは三郷村の名前は通算で22年しかもたなかった。萩原は三郷の名前を捨てて江戸時代の地名に戻ったんだよ。
君:三郷はそもそもが明治8年に突然にできた村名であるし、それに三郷は下呂を含む概念だから、明治30年に萩原の人たちはハッと我に返ったのよね。
私:まあ、そんなところでしょう。要するに三郷の名前は、まずは明治16年に現・下呂市下呂に、続いては明治30年に現・下呂市萩原町に、次々とそっぽを向かれて名前は消滅したという事。
君:江戸時代の萩原は萩原町(まち)だったのだから、萩原が三郷村の名前を捨てて萩原町(まち)村と名乗らなかったのは何故かしら。
私:それは中央が許さなかったのだろう。今まで通りの三郷村か、新しく萩原村か、どちらかの選択を迫られる萩原の村人たち。
君:ほほほ、迷う事なく萩原村をお選びになったのね。でも、その後に萩原村は萩原町(ちょう)に昇格するわよね。それはいつ?
私:昭和31年だ。益田郡萩原町。
君:ほほほ、ところが再び萩原町を悪夢が襲うのよね。
私:その通り。平成の大合併。益田郡が消滅、益田郡下呂町が益田郡の全てを呑み込み下呂市誕生。この瞬間に下呂市萩原町になった。地名だけのお話という事でお願い、上呂・中呂・下呂、この三つを示す三郷問題は最終的には下呂の圧勝で幕引きとなった。
君:益田市とか三郷市でいいんじゃないか、という抵抗勢力が無かったのかしら。
私:勿論あった。但し、当時は既に山口県益田市が存在した。従って岐阜県益田市の候補名に待ったをかけたのが総務省じゃないかと思う。残る候補名は岐阜県三郷市だが。
君:当然ながらあり得ない選択、つまりは下呂の人にも萩原の人にもそっぽを向かれて明治時代に一時期だけあった名前は泡沫候補という事ね。
ほほほ