大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 心理学

内省

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私:内省(ないせい)とは心理学用語 introspection, reflection の日本語訳だが、方言学でもよく用いられる手法だ。実はこのサイトの記事の大半は私自身の内省によるもの。
君:まずはその定義ね。
私:要は自分自身に問いかけて、自分自身が判断する事。当サイトのテーマとしては、ある文章が飛騨方言のセンスにあっているかどうか、を自分自身に問いかける事。多言語国家が多いが、方言を一つの言語と考えた時に日本も立派な多言語国家。東京人は東京方言を話し、京都人は京都方言を話す。東京人は京都方言を異質なものとしてとらえ、京都人は東京方言を異質なものとしてとらえる。
君:そんなの当たり前の事だけれど、考えて見れば不思議だな、というお話ね。
私:言語の習得は三才あたりまで。これを母語という。人間は、この母語の呪縛からは逃れる事が出来ないし、まずもって方言(母語)の獲得がその後の知性の獲得につながるんだよ。私自身は覚えが無いが、私が三歳の頃に私は誰彼にも「おりゃなあ、おおにしのなあ、さしちーっていうんやさあ」と自己紹介していたと親が私に教えてくれた。妙に納得、これが内省。つまりは僕の心の奥に最重要語として大切に保存されている挨拶語。
君:ほほほ、目に浮かぶわよ。ところで東京人にとっては京都方言は獲得言語ね。
私:その通り。英語やドイツ語だけが獲得言語ではない。人間の記憶には階層性があり、母語は人生の初期の情動体験と強く結びついた【最も古い文脈 context 】であり、人間の記憶の【完全なトリガー trigger 】であり、完璧な【検索キュー retrieval cue 】であるという事。だからこそ内省が可能なんだね。
君:その一方で、獲得言語というものは情動体験とは直接結びつかず、ひたすら入試合格という目的を完遂するためだけの手段。しみじみと獲得言語を味わうという事は原理的に不可能なのね。
私:その通り。シェークスピア戯曲に人生の機微を感ずるのは英文学者が得意とする知性の問題。つまり前頭前野が物を言う世界だ。またスペルから英語の語源を類推するというのは一見して内省のように見えるがやっている事は記号論理学そのもの。より具体的にはラテン語やギリシャ語の知識が物を言う世界という訳だ。
君:飛騨方言の語源の探求は内省とは全く関係ない手法が必要ね。
私:その通り。まずもって一番に大切なのが古語の語彙と古典文法の知識、続いては音韻学。全て獲得知識であって、繰り返し使っていないと忘れてしまう。つまりはこのような雑多な知識には retrieval cue も、 trigger も、 context すら存在しない。脆弱な記憶と言い換えてもいいね。方言そのものは忘れる事がなく、使いたい放題の大倉庫というわけだ。つまりは膨大な context の中から retrieval cue が瞬時に目的のものを探し出し、方言っていいね trigger というしみじみとしたストーリーになる。
君:内省という便利な機能が役立たない獲得知識・獲得言語の強化に必要なのは反復ね。 ほほほ

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