大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 認知方言学
In speaking, being correct and pleasant doesn't guarantee success.
私:認知方言学とは、言わば、感情の解析。生まれたとき、つまりは言葉を学び始めた幼児の言葉には感情がない。
君:幼児にも喜怒哀楽はあるけれど、そういう意味ではないのね。
私:その通り。彼らにとって学びはじめる方言は中性的。小学生になって国語が始まると途端に方言に対する認知が始まる。
君:きちんと標準語が話せる事は、快感であり、正しい日本語を話している達成感であり、といった所かしらね。
私:わざと方言を使ってふざけた雰囲気を装ったり、或いは共通語・標準語を使う事でふざけた雰囲気を装う事もある。僕の場合は畿内アクセントにかなり不快感を覚えるね。尤も、これは飛騨人同士の会話に限って、の話。飛騨方言のアクセントは「内輪東京式アクセント」に分類され、純粋な東京アクセント。つまりは、飛騨人なのに畿内アクセントで話す人がいるとすれば、その人は飛騨人を装う人間、つまりは偽の飛騨人であると感じないではいられない。僕をはじめ一般の人々が方言に対してどう感じているか、これは方言学者の方々にはわかりづらい事か。そこを調査するのが認知方言学というわけだ。
君:佐七君は飛騨方言しか知らないのだから、他の方言については何も言わないほうがいいわね。
私:一度だが、失敗した事がある。九州方言では下一段活用が五段化する事がある。食べない、の代わりに、食べらん、とか。「下一段活用の五段化というのですよね。正しくは、食べない、ですね。」と言ったら、真赤な顔をして「生まれも育ちも九州じゃけ」と、お怒りになった。僕としてはただ単に文法のお話をしただけのつもりだったのに。
君:なるほど、認知方言学が社会に役立つ学問であるとするならば、つまりは、畿内方言以外は気づいても気づかないふりをしていたほうが無難です、という事かしら。更には、見知らぬ人には標準語で話すに限るわね。ああ、怖い。
ほほほ