大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 方言学
日本語に主語は要らない
私:昨日からゼロ接辞の事を少し考えている。僕にとっては、はなはだ勇気がいる発言だが敢えて、日本語のゼロ接辞の大半はゼロ接尾辞であろう、と予測した。
君:あれこれ調査すると実は間違い、という事もあり得るわね。
私:いや、そう意味ではなく、逆の意味で、そうそうゼロ接頭辞はあるものではない、と踏んでいたが、実は誰にもわかりやすい例がある。
君:それが表題ね。
私:その通り。詳しくはここ。
君:なるほど日本語が主語が無くても会話ができる言語であるという事は、動詞に主語を代表したゼロ接辞が乗っかっている、という意味ね。
私:いやいや、そうではない。接辞というものは一つの語と別の語を結ぶもの。日本語は盆栽のような形式で、動詞という剣山に副詞等がランダムに突き刺さっている。膠着語だから。つまりは動詞一個だけの単文ならば確かに、当該動詞に主語を代表したゼロ接頭辞が接続している、と言う状態であるが、実際ははそうではない。主語が無い文章というものは、主語を代表したゼロ接頭辞+多くの副詞句+動詞、という語構成だから、構文的にはゼロ接頭辞が直接的に接続しているのは「多くの副詞」という事になる。勿論、文法的には、主語を代表したゼロ接頭辞は動詞の直接的な修飾語、という事になる。
君:まあ、どうでもいい事のような気もするわね。
私:そうはいかないのが金谷武洋氏だ。日本語に主語はいらない・講談社選書メチエの巻末にお書きだが、三上章論文「象は鼻が長い」、現代語法序説・刀江書院、を全面的に支持するという思想で貫かれて出版された書だ。三上氏のご遺影を拝みながら執筆なさったというエピソードは鬼気迫るものがある。
君:別名が、うなぎ文ともいうわね。僕はうなぎだ。僕は好きな食べ物がうなぎだ。
私:その通り。うなぎ文にゼロ接頭辞の現象が端的に表れている。斐太高校の大先輩・岡本真一郎さんの書「言語の社会心理学」に「わたしの孫はおじいさんです」という例文があるが、これもうなぎ文のレプリカだね。
君:わたしの孫(の学芸会の役)は(山へ芝刈りに行く)おじいさんです、という意味ね。
ほほほ