大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 奈良時代

奈良時代の飛騨方言

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奈良時代の飛騨方言、といってもピンと来ない方が多いのではないでしょうか、じつは私。それでも2006年夏現在、約千ページほど書いた当サイト記事を私自身が読み直すにつけ、奈良時代、東大寺をキーワードにしますと幾つかの記事がヒットし、また新たに書く示唆を与えてくれます。ツールは Google desktop (free soft)です。私のパソコン自身が情報源になっているのはありがたい限りです。前置きはさておき。

飛騨工の飛騨方言の通りですが、文献に初めて飛騨方言が出てくるのが東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゅもんこう)のようです。畿内の言葉とかなり異なる飛騨方言とは、ふーむ。

さて拙著・富山の飛騨と奈良の飛騨に奈良県橿原(かしはら)市飛騨町(ひだちょう)、奈良県橿原(かしはら)市上飛騨町(かみひだちょう) の町名をご紹介しました。飛騨工の末裔がお住みの町です。ただし橿原京の成立は神武天皇の時代で、天智天皇の大宝律令制定(701年)前という事に驚かされます。"日本の律令制は、概して7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが最盛期とされている。(Wikipedia)"の通りです。奈良時代以前から飛騨工が都の造営に携わり、自分達の町を斑鳩の里に形成していたという事なのでしょう。もっとも東大寺へ数キロの距離、健脚で通勤可能な距離かもしれませんね。あるいは東大寺界隈にも飛騨工のコミュニティがあったにせよ、名前が現在に残っていないのかもしれません。

更には拙著・一位一刀彫(いちいいっとうぼり)をご検討ください。飛騨にはイチイという素晴らしい木がある、笏(しゃく)に持って来いですよ、これを進言した人物は時の飛騨工に他ならないでしょう。天皇は飛騨工が作った笏にご満悦なされ、都の造営もご自身が持つ笏も飛騨工にまかせるお気持ちになったのでしょう。

以上が前置きでした。つまりは相当の訛りの飛騨方言の飛騨工なれど、朝廷の覚えめでたく腕は確か、つまりは実力です。育ちではなく実力を評価された飛騨工、やり甲斐があったでしょうね。

本題ですが、上記の東大寺資料によりますと奈良時代には大変に聞き取りにくかった田舎言葉・飛騨方言ですが、当時の都の言葉とはどんなものだったのでしょう。金田一京助、日本語の変遷、講談社学術文庫によりますと、
  1. 母音は八個存在した(a,i,u,e,o+wi,we,wo)。
  2. 和音に加え、呉音(古代揚子江の発音、例えば名・明のミョウ、人のニン等)と呼ばれる発音体系があった。
  3. さらには遣隋使が留学、また隋からは音博士が来日し 漢音(中国西北・長安の発音、例えば体裁のテイサイ、品行のヒンコウ等)を教授し 教養ある発音とされた。
  4. 濁音で始まる言葉が生じた。
  5. ラリルレロで始まる言葉が生じた。
  6. 動詞の活用が発達し、四段活用、一段活用、上下の二段活用が完成した。
  7. 敬語の用法が出現した。独自の敬称形動詞の発明、助動詞四段活用の"~す"の発明、 たぶ・たまふ等の補助動詞の発明等々。
であるとか。このような特徴がなかったのが奈良時代の飛騨方言なのでしょう。しかしながら正直言って、私自身何を書いているのかよく分からないんですよ。しゃみしゃっきり。

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