大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 明治

ラジオ放送

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私:飛騨弁版画集いろは歳時記(岩島周一著)に記載の通りだが、その総括のような事をお書きしたい。
君:岩島周一様とはどのようなお方かしら。
私:大正7年に丹生川村にお生まれになり、生涯にわたり飛騨を舞台というか、飛騨方言をテーマに版画、水墨画、多くの飛騨方言の著作を残しておられて、当サイトとしても避ける事の出来ない人物という事かな。
君:その業績の一部が件の飛騨弁版画集いろは歳時記というわけね。でも、流石に死語のオンパレードで辟易しちゃうわね。
私:その通り。実は飛騨弁版画集いろは歳時記には巻末にコラム記事があり氏自身が、・・・昭和の時代に生きている自分としても最早、死語に近いこのような飛騨方言語彙を版画集に残す事に心に閊える気持ちが無いわけではないが自分自身が幼少期に聞き話したまぎれもない言葉であり自分を育ててくれた祖父母や両親の思い出を大切に思う気持ちから何れ遺稿になるこの書が後世のどなたかに届く事があれば・・・と書き記しておられる。
君:なるほどね。
私:つまりは、死語のオンパレードには違いないが、明治末から大正にかけてのまぎれもない丹生川村の言葉であったという事。当時に音声記録などなく、飛騨方言という日本語の下位分類の歴史を知るのに貴重な資料であると僕は考える。
君:つまりは、飛騨弁版画集いろは歳時記の語彙は戦後あたりには、つまりはこの書が出版されていたころには多くが死語になっていたという事なのね。
私:その通り。件のコラムには・・・丹生川尋常小学校に入学したのが大正13年で、翌年の大正14年(1925)のラジオ初放送の思い出も懐かしい・・・とも付記されている。つまりは急速に当時の飛騨方言が死語化したのがラジオの全国放送というわけだ。子供達は言うに及ばず、尋常小学校にお勤めの教師の方々も初めて東京語を直に耳にした瞬間というわけです。
君:明治37年(1904)使用「尋常小学読本」、別名がイエスシ読本、これで全国一斉に小学校教育を進めた明治政府だったけれど、方言を駆逐するには至らなかったのね。
私:その通り。イエスシの発行からラジオの全国放送までには 1904-1925=21年の年代差がある。今日はこの事だけを覚えておこう。
君:なるほど、飛騨方言の大変革が始まる、その序章が全国放送のラジオというわけね。ところで佐七君の頭では明治の言葉なのか、大正の言葉なのか、まだ整理がついていないのね。 ほほほ

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