大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム アイヌ語
アイヌ語(上級コース)
私:今日は飛騨の難読地名、みぼろ御母衣、について。
君:これがアイヌ語であるとでも仰りたいのね。確かに、よく知られて所ではサッポロ札幌はアイヌ語よね。
私:そのような例は東日本に集中する。東京のシブヤ渋谷、これもアイヌ語説として有名な地名だ。アイヌ語由来とされる根拠は、「シンプイヤ(泉の岸)」、
「スプヤ(激流の岸)」からの類推。太古の渋谷川周辺に湧水や流れの急な場所があったという自然地形を反映しているとも言われる。
君:それはあくまでもひとつの説ね。
私:その通り。実証するものは無い。比較言語学と呼ばれる学問の分野です。日本中の全ての地名が頭に入っていると、あれこれアイデアが湧いてくる、というような学問。形而上学の最たるものと言ってもいい。地名哲学と言ってもいいね。哲学は学問の王だ。
君:そこで出てくるのが、御母衣の地名のアイヌ語説というわけね。音韻がミポロなら信じてもいいけれど。
私:それはとても素敵なセンス。ミポロの音韻は大和言葉の音韻から著しく外れているからね。かつて存在した岐阜県大野郡白川村御母衣について、地名の由来を知りたいところだが、村は御母衣ダムの湖底に沈み、かつての村民は離散、村の歴史を語れる人はいない。ましてや縄文時代の白川村御母衣に誰が住んでいたのかについては知るすべがない。飛騨全体が縄文文化であった時代があったのだから、御母衣にかつて住んでいたのは縄文人。
君:縄文人とアイヌ人はイコールと断定していいのかしら。
私:近年の文化人類学、特に人骨DNAの解析では定説となっている。
君:それじゃ、おしまいね。
私:そんな話では初級コースだろ。
君:あら、なにか他にデータがあるのかしら。
私:ある。書物だ。『斐太後風土記(ひだごふどき)』。富田礼彦(とみた のりひこ)著・明治6年(1873年)に成立、全20巻。同書には・・「和訓栞(わくんのしおり)、江戸時代中期の国学者である谷川士清の書、安永6年(1777年)から明治20年(1887年)にかけて刊行」に未曽漏(ミゾロ)は泥濘(でいねい)の事を言い、美土路(みどろ)の転也とある事から当地にあった濁池にあった泥濘から転じたものか、池は御母衣池といい、直径15間・水深1丈であった・・と書かれている。
君:富田礼彦、谷川士清といっても聞き慣れないお方がたね。
私:彼らは幕末あたりの国学の一派だ。富田礼彦は田中大秀(高山市)に師事している。田中大秀は本居宣長の直弟子のナンバーワン、竹取物語の第一人者といったところ。
君:あなたのいう事がよくわからないわ。
私:簡単に説明しよう。斐太後風土記という書物に御母衣の地名の由来が書かれているといっても、これは富田礼彦という一国学者の私見、更に困った事には、斐太後風土記は和訓栞のパクリという事だ。歴史的な書物が後世の学問の発展で批判にさらされる事は致し方のない事だが、彼らがDNAに基づいた日本人の文化人類学を知っていたわけではないし、古い文献に何かの記載を発見したからといって、金科玉条の如く、その記載を鵜呑みにすることは如何なものでしょう、と僕は言いたい。
君:そろそろ本日のまとめをお願いね。
私:彼ら国学者たちが日本語としては珍しい音韻「みぼろ」に大変な興味を抱いていたであろう事は彼らか残した著作からよくわかる。私もその一人だ。どうも大和言葉としてはシックリこないから、これは若しかしてアイヌ語かな、という発想が国学者の人達にはなかったのだろうか。比較言語学とか、外国の文献に触れなかった人達だからなあ。蛇足ながら田中大秀は下呂市萩原町上呂のアサンズという奇異な音韻に大変な興味を抱いた。
君:それは絶対に無理よ。あの人達には記紀・万葉・風土記や竹取が全てよ。富田礼彦さんの「後風土記」という著作名にヒシヒシと現れているわね。
ほほほ